僕の目に映る君は綺麗だ

「君はもう少し、踏み込んでもいいんじゃないか?」
その言葉は蓮緒から暁彦に向けられたものだった。
暁彦の姿は当然ながら蓮緒の前、支部の支部長室の中にある。相談をしたいことがあり、ここまでやってきた暁彦が投げかけた言葉の答えが、今しがたの言葉だ。
その言葉は一理あるどころではない。想定できたものでもあり、承知しているところでもあった。切り口こそ違えど、周りの人間からここ最近はかなり指摘されていることだ。
この場の議題は、つまり暁彦の問いは彼が想いを寄せる七海弓花に対してどのような態度を示せばいいか、その向き合い方についてだった。
「どう選択するかは君の自由だと思うけどな……後悔して、何も出来なくなってからじゃ遅いと思うぜ?」
とどめにも等しい言葉に暁彦はぐうの音も出ない。自分自身でもそれは思っているのだから、反論のしようがないとも言えるのだが。
あの時、彼女は確かに「好き」と言葉を口にした。その声を暁彦自身しっかりと聞いていたのだが、あれは本当だったのだろうかという不安が拭いきれない。彼女を疑っているのではなく、自分自身の都合のいいものだったのではないかというものだ。
どうしても不安が先に立ってしまって前に進めない。足踏みをしてしまうような形になってしまっていた。弓花のことを大切だと思うし、好きだとも思うからこそ臆病になってしまう。
それでも一歩を踏み出したいと、つい訪れてしまったの蓮緒のところだった。
支部長というよりすっかり頼れる兄貴分、という認識が暁彦の中で定着しつつある蓮緒は、相談役という形でアドバイスを口にしているという状況が今だ。
〝何もできなくなってからじゃ遅い〟
その言葉は暁彦の胸に深く突き刺さる。
自分が平和とは表せない世界に身を置いていることはよくわかっているし、その立場は弓花とて大差ない。互いにいつ何があってもおかしくない以上、手遅れという状況が発生する可能性はどうしてもついてまわる。
現状を変える方法もわかっている、だからこそうまく動けないというのが暁彦自身の正直なところだった。
「ま、と言って焦りすぎても……というのもあるしな」
蓮緒はそう言って笑う。
「ありがとう、ございます」
笑い返しながらも暁彦の頭の中は悶々としていて、ぐるぐると先から同じことばかりが回り続けていた。

 

「暁彦、これやるよ」
軽い口調で時臣が何かを差し出す。学校からの帰り道、用事があるという若菜と弓花がいない中での出来事だった。
「え、何?」
口ぶりこそ飄々としていたが、そこはかとなく何か企みを感じさせる様子は暁彦によくない予感を抱かせたが、それでも反射的に差し出されたものを受け取る。
そして次には絶句した。
「欲しかっただろ?」
にやりと笑う時臣がよこしたものは、暁彦と弓花が隣に座ったまま眠っている様子だ。お互いが少し間に寄りかかる格好で心地良さそうに眠っている姿は、見るからに微笑ましい。
そして同時に暁彦の羞恥心を爆発させる。
「別に……!」
口ではそう言っても少なからずどころではなく、かなり嬉しい光景に暁彦の表情には恥ずかしさに喜びが入り混ざっていた。なんとも複雑なものの混ざり合った姿は、感情の処理が追いついていないことの証左以外の何者でもない。
「そっちにも入れてやろうか」
時臣の容赦のない言葉から、あわやスマホにまで写真を入れられそうになるのを、何度も首を横に降りつつ暁彦はひたすらに振り回され焦り続ける。
時臣からしてみれば、そんな反応をするならばはっきりと伝えればいいのにと思うところではあるが、暁彦の様子からそれが出来ていないことを察するにはあまりあった。
「お前の中でそれだけはっきり答え出てんなら、ちゃんと言えばいいだろ。もたもたしてるうちに誰かに取られちまうぞ」
キッパリと告げられる言葉に、暁彦はどきりとする。
「それに、これは俺が思ってるだけだけどな……やらないまま後悔するより、やって後悔する方がマシだろ」
時臣は言葉を続ける。後悔をするような結果が訪れるとは思えなかったが、それについてはあえて言及を避けた。
「……うん」
面と向かう暁彦は神妙な面持ちだ。
「ま、気負いすぎずにぶつかりゃいいんじゃね?」
全くその言葉通りで、先日の蓮緒の言葉と合わせて暁彦の中で前を向く勇気に変わっていくのがわかる。
「ありがとう」
感謝の言葉を受けた時臣は「別に」と返しながら笑っていた。

 

また別の日の学校の帰り道、暁彦の隣には若菜の姿のみがある。
快活な親友はいつもと変わらぬ様子で口を開いた。
「ね、アキ。このあいだ弓花、告白されたんだって」
「……そう、なんだ」
若菜の言葉に暁彦の言葉が詰まる。あからさまな暁彦の様子に、若菜は肩をすくめたあとに笑った。
「アキ、これ聞いてどう思った?」
「どうって言われても……」
次の問いかけにも言葉を詰まらせてしまう暁彦に、若菜は再び肩をすくめる。
「モヤッとしたんじゃないの?」
「……そんなこと……」
「ないって言いきれる?」
若菜からの再びの問いかけは、暁彦から言葉を完全に奪った。彼女の言うとおりだったからだ。反論など出来ようはずがない。
「きちんと伝えてあげればいいのに」
弓花は間違いなく喜ぶんだから、そう重ねられた言葉は真っ直ぐに暁彦を貫く。
ここ最近、色んな人と弓花のことを話題にする度に、あの日の言葉はやはり真実なのだろうと実感し続けていた。
だが、やはりここで問題になるのは自分自身だ。
──僕は本当に、彼女に好きと伝えていいのか。
〝好き〟という感情にどうしようもなく自信がない。
暁彦はずっと、親のために生きてきた。そこに自分の意思は介在せず、向けられる感情は期待と落胆と絶望くらいのものだ。
だからなのか、彼はどうにも自分に向けられる感情については察することが苦手な傾向があった。
加えて、自分自身の気持ちを押しとどめてきた弊害でそういう気持ちにもめっぽう鈍感だ。
傍から見れば火を見るよりも明らかなほど、暁彦も弓花もお互いを思っているのに前に進めない。そういった実感が存在していないからだ。
それ故に立ち止まってしまう。
若菜から見てももどかしく、それ以外の者から見ても間違いなくもどかしい、そんな有様だった。

 

「ねぇ、瀬名方くん」
「どうしたんだい、七星くん」
最近の周りの人々との会話──弓花の話題について──は暁彦を悶々と悩ませ続けていた。それを相談するなら冷静な人間がいい、と思ったときに真っ先に暁彦の頭に浮かんだのは瀬名方だった。
「ちょっと相談したいことがあって……」
暁彦の言葉を聞いて、瀬名方は少し考える仕草をしてから「どういうことかな?」と言葉を返す。続きを促す言葉を聞いて暁彦は内心ほっとしつつ再び口を開いた。
その口から紡ぎ出された言葉たちは、要約すると暁彦と弓花の関係性や関わりについてを言及されることが多いというものだ。
「気にかけてもらってるのは分かるんだけど、どうしてこんなに言われるんだろう……?」
最後にそう結んで暁彦は顎に手を当てて考え込む。真剣かつどうしようもないほどに悶々としている様子が見ているだけで伝わるほどだ。
「……七星くんが逆の立場だと考えてみるといい」
「逆?」
「時臣と敷島さんの様子を見ていると思って、七星くんや七海さんのことを当てはめてみたらどうだい?」
「あ……」
これだけで何か悶々としていた物たちが一斉に腑に落ちたような気がした。
「今、思ったことが答えだと思うよ」
「……うん、よく分かった。ありがとう」
感謝の言葉と共に瀬名方とわかれながら、暁彦は心なしかすっきりとした表情を浮かべる。
腑に落ちて、納得できてしまえば大したことではない。あの二人と自分達は確かに近しいといえばそうなのだ。
だが、そこまで承知してしまうと次に暁彦に襲いかかってくるのは慣れないことに対する巨大な羞恥心だった。
今まで抱いたことのない感情、感じたことのない気持ち。全てが初めてのことで、想像したことすらなかった物だ。自分とは縁遠いと断じていた物だった。
──僕にも、持てる気持ちだったんだな。
実感というにはまだ不足していたが、頭の中では拒絶も反発もない。これは自分が抱いた自分だけの感情で、嘘なんかじゃない物だ。
いろんな人からの言葉が暁彦の背中を押す。遅くなってしまったが、きちんと返事をしようと心に決めた瞬間だった。

 

いつもと変わらぬ授業の後、当たり前のように放課後がやってくる。
「弓花」
隣の席に座る弓花に、暁彦は意を決して声をかけた。
「……どうしたの?」
暁彦の緊張が如実に伝わり、弓花もまた緊張に息をのみながら静かに声を返す。
「この後、少しだけ時間……いいかな?」
「うん」
教室の中は普段と変わらぬざわめきで満ちている。
しかしこの二人の周りはしんと静かになり、空気は緊張をたたえていた。
最近は暁彦と弓花が連れ立っていることも多いため、周りの生徒達が口を出してくるような様子もない。むしろこんな様子すら、日常の一つである。
だが二人からすると、周りの様子すら意識できなくなるほどの緊張の瞬間に他ならず、心臓の音が今日つ中に響き渡っているのではと感じてしまうほどのものだった。
それでもこのまま教室にいるわけにはいかない。
「行こう?」
暁彦は弓花を促すと教室を出た。
とは言えど特に行くあてがあるわけでもなく、校門を抜けて街の方へ向かいながらも二人の足取りは軽やかとは言い難い。暁彦も弓花も意味合いは多少異なるが緊張をはっきりと見せていて、そのせいもあってか二人の間に言葉はなかった。
あてもなくしばらく歩いていると、人のまばらな公園が目に止まる。
「ここで……いいかな?」
確認の言葉を口にした暁彦に対して、弓花は小さく頷いて見せた。
子供の姿も大人の姿もあまり見受けられない小さな公園には、申し訳程度の遊具とベンチが並んでいる程度だ。
弓花へベンチに座るよう促してから暁彦も隣に腰を下ろす。二人の間には微妙な空間があいていて、それもまた彼らの緊張をはっきりと表していた。
「暁彦くん?」
疑問の色を帯びた弓花の声が暁彦に問う。このあと少しだけと言われただけで何も知らなければ、表情からも何を言われるかなど想像もできていないのだろう弓花は不思議そうに首を傾げていた。
「ごめんね、突然」
開いた暁彦の口からは謝罪の言葉がこぼれる。しかし、弓花はその言葉を横に首を振って否定した。その表情はどこか嬉しそうでもあり、この時間を嫌な物だとは思っていないことが暁彦にはっきりと伝わる。
「どうしても伝えたいことがあって」
緊張で声が震えていた。こんな経験は初めてで、不安が暁彦にこれでもかと言わんばかりに襲いかかる。
唾をごくりと飲み込んでから、一度息を整えようと大きく呼吸をした。
「大丈夫?」
弓花は心配そうに暁彦の顔をのぞき込む。それがまた緊張を加速させてしまうのだが、気にかけてもらえるという点においては嬉しさもあった。
「……うん。大丈夫」
言葉とは裏腹に、という状態ではあったがこうすると決めたのは他の誰でもない自分自身だと、必死に己を鼓舞する。振り絞った勇気も、みんながかけてくれた言葉も無駄にしたくはない。
「前にさ……だいぶ前だけど……好きだって言ってくれたでしょ?」
暁彦の言葉に今度は弓花の様子が目に見えて変わる。はっきりとした緊張と、結果の見えない恐怖が弓花の身体をこわばらせた。
「その返事を、しようと思って。ごめんね、時間かかって……」
さらに重ねられた暁彦の言葉を受けて、弓花は何度も横に首を振る。その様子に少し口角を上げてから、暁彦はまた口を開いた。
「その……僕も好き、です」
格好のつかない告白だな、などと考えながら弓花へ伝えるのと同時に、自分自身で噛み締めて確認するようにはっきりと言葉を告げる。
弓花はぽかんと呆けた表情で暁彦を見つめていたが、そのうち頬どころか耳に至るまで真っ赤に染めあげて視線を落とした。
「だから、もし……まだ同じ気持ちでいてくれるなら、僕と、付き合ってもらえますか?」
その言葉を発した暁彦も弓花に負けじ劣らず、顔も耳も真っ赤になっている。揃って赤く染まった顔は、夕日ぼ色と混ざり合っていった。
「えっと……あの、ね……」
しばらくして弓花が口を開く。その声にそれまで照れから向けられなかった視線を向けてみれば、夕日の色よりもさらに赤く染まった頬と緊張からか少し潤んだ瞳がきらりと光っていた。
暁彦は彼女の姿を〝綺麗だな〟と思う。それと同時に、やはり自分は彼女が好きだと心底から感じていた。
「よろしく、お願いします……」
この上なく恥じらった様子から、消え入るような声で肯定の意を言葉にする弓花は次いで暁彦にはにかんで見せる。
それはまるで花が咲き誇るかのような美しいものだと感じながら、暁彦もまた微笑んだ。