それは家路を行く夕陽がさすころ、唐突に始まった。
「ね、アキ。弓花のこと名前で呼ばないの?」
最近はすっかりおなじみになりつつある、親友たる八重樫若菜からの言葉だ。このいじりという名の言に七星暁彦は目を見開く。それは驚きと照れの混ざり合ったもので、どう返したものかと開きかける口を閉ざしてしまうほどに暁彦は動揺していた。
若菜の方はというと、悪戯の色を帯びた笑みを浮かべて暁彦の様子を窺っている。返答に期待していると言うのが、より適切かもしれない。
だがいつまでも口を開かない──開けないと言う方が正しい──暁彦に痺れを切らして、若菜は再び口を開く。
「私のことは若菜って呼ぶじゃない? だったら弓花って呼んだらいいと思うのよね」
たたみかけられた言葉に暁彦は思う、今日ほど家が近いことを恨めしいと感じた日はないかもしれない、と。
話題の人、七海弓花は暁彦に今まで感じたことのない気持ちを抱かせる。人並みとはいえない日々を送ってきた彼だからこそ、軽率にその気持ちに対して名前をつけられずにいた。
だからこそ若菜の言葉に応えられない。純粋にどうしたらいいのか、どう応じたらいいのかがわからないというのが正直なところだった。
「ね、アキ。聞いてる?」
暁彦の顔を覗き込みながら若菜は口を尖らせる。
「……うん」
どうにか応じた暁彦の表情も声色も、そこはかとなく重みを帯びていた。それを見落とす若菜ではない。目を細めて微笑んでから口を開いた。
「アキはね、深刻に考えすぎなんじゃないかと思う」
世話焼きな彼女の一面が顔を出す。こんなときの若菜は特に頼れる人だ。人間味のある経験が乏しい暁彦にとって、先輩と言える存在である。
「大丈夫よ!」
そう言って若菜は暁彦の背中をばんと叩いた。
そのまま彼女は「また明日」と告げて離れていく。気がつけばそこはいつもの別れ道、まさかこんなところにまでもう至っていようとは驚きだ。
手を振る若菜に、暁彦は手を振り返しながら口の中で“大丈夫”と唱えてみると、まるで魔法のように心が軽くなる。暁彦はその事に感謝しながら、若菜の姿を見送った。
チャイムが鳴る。今日の授業の終了を音がはっきりと伝えていた。校舎には生徒たちのざわめきがすっかり満ちていて、放課後独特の気配に溢れている。
「七星くん」
隣の席から自分を呼ぶ声に、暁彦は視線を向けた。
彼女、七海弓花は控えめに微笑んでから再び口を開く。
「若菜との待ち合わせは閘門のところで良かったよね?」
こてんと首を傾げながら弓花が尋ねた。三人ともに今日の放課後は予定がないから、少しばかり寄り道でもして帰ろうかという話をしていたのだ。
「うん、大丈夫。行こうか」
自然と笑い返しながら暁彦は荷物をまとめて立ち上がる。そのまま歩き出した暁彦に弓花が続いた。
移動する二人の話題は授業についてのものだ。真面目、といえばそうだがこの話題は、先日から学校に復帰したばかりの弓花が「勉強を教えてほしい」と口にしていたことへの暁彦なりの配慮でもある。どのあたりがわかりにくかったか、そんなことを確認しながら校舎の外へと出た。
そのまま言葉を交わしながら校門のところへ向かうと、丁度若菜の姿が見えた。時臣の姿もある。
「来た来た! ちょうど良かったみたいね」
良いあんばいで合流出来たことが満足だったのだろう若菜は扇子を開いてひと扇ぎした。
「予定聞いたら今日は特に何もないって言ってたから、トキも連れてきたの」
「うん。みんなの方が、楽しいと思う」
若菜の言葉を弓花が笑顔とともに肯定する。彼女らの様子と言葉に頷きながら暁彦は、時臣の表情に先日の若菜と似た悪戯の色を垣間見た。自分が時臣の立場にいる時もこんな風なのだろうかと、見えない自分の姿を思い浮かべて苦笑した。
「なんだよ? 変な顔して」
「別に?」
暁彦の表情に時臣は疑問とともに問いかけるが、今度は今しがたの自嘲にも似たものとは違う苦笑を浮かべる。困ったものだ、暁彦は自分の感情にすっかり振り回されていたのだから。
「ほらほら、行くよ〜! 今日はどこにしようか?」
若菜が集団を引率するように先頭をきって歩き、弓花が小走りでそれを追いかける。暁彦と時臣はその後ろから彼女らを見守るように後ろから歩いた。
「暁彦さぁ……」
隣に並ぶ時臣が呼びかける。
「なに?」
「七海サンのこと、何でずっと苗字で呼んでんの?」
その問いは切り口は違えど先日の若菜の言葉と同じものだ。
「……別に、理由なんて……」
暁彦はつい口ごもってしまう。若菜の言葉を受け、時臣の言葉を受けてもなお、暁彦の返す言葉の歯切れは悪い。
「ま、好きにすりゃいいけどな」
さらに重ねられる時臣の言葉は暁彦に対する呆れの感情がありありと滲む。そのまま先に行く若菜たちの方へと向かう。
一人取り残される格好になった暁彦は、三人の背中を見つめながら悶々と思考を巡らせた。そして思い出すのは、いつぞやの弓花の言葉だ。
『好き』
その言葉はこぼれ落ちたようなものだったが、きっと偽りではなかったのだろう。はじめは気のせいだったのではないか、そう思っていたのだが今にしてみればその認識は間違いだろうことは、さすがの暁彦にも察することのできるものとなっていた。
若菜や時臣のいう通りに弓花の名前を呼んでみたところで、彼女は驚きこそすれど拒絶することはないだろうこともわかる。だが、ここまでくると暁彦としては純粋に恥ずかしさが先に立つのだ。
━━それでも、彼女が笑ってくれるのならば。いいのかも知れない。
そんなことを、思った。
「七星くん?」
ぼんやりとしていた所に弓花の声が隣から暁彦の耳に届いて、反射的に視線をそちらへ向ける。そこには声の通りの弓花の姿があり、暁彦のことを覗き込んでいた。
「わ、え……と……」
「あ……驚かせてごめんね?」
「ううん。僕がぼーっとしてたから……こっちこそ、ごめんね」
お互いが謝り合う構図はこの二人にはたまに起こる状況にはなる。少し気まずさのある空気は、二人に無言の間を与えた。
「……あの、どうしたの?」
「えっと……あのね……七海さん」
姿勢を少し正して改まった様子で呼びかける。暁彦の様子に弓花もまた自然と姿勢を正してから、呼びかけに首を傾げた。
「……弓花、って呼んでも……いい?」
おずおずと暁彦の口から紡ぎ出された提案に、弓花は一度その動きを止める。しかし、すぐにその口を開くと「え……あの……いいよ? もちろん」と応えた。
「ありがとう……弓花」
「ど、どういたしまして……あの、ね……私も、その、呼んでもいい……? 暁彦くんって」
「……うん」
少しぎこちなくもありつつ、それでいて穏やかな空気が流れる。一歩、何かの歩みが進んだ瞬間だった。
