その身に献身の心ありて

血を吸う人間とは異なる存在、それははっきりと認識することこそできなくとも、間違いなくこの世界に存在している。
それは世の中においての定説であるのだが、オスカーはそのいわゆる吸血鬼というものと実際に出会ったことはなかった。
厳密にいえば出会ったと、認識したことはなかった。
吸血鬼というものは人間と変わりない存在であり、食事や人間とは一部異なる部分が発達しているということはあるが、見た目には世間一般の言うところの人間とは全く遜色がないのだ。
吸血の瞬間を目撃したり、当人からその事実を告げられでもしない限りは、事実を正しく認識することは難しいとすら言える。
だからこそオスカーは生まれてから成人した今に至るまで、伝え聞く定説以上の吸血鬼に対しての知識を有さずに生きてきた。
実在性を否定する訳では無いが、非実在性を否定出来ない以上、その存在はお伽噺の域を出ないように感じられる。それがオスカーの所感だった。
しかしそれは、オスカーの身近な存在によって崩される。
オスカーが誰よりも大切に想っている相手であるミオが、学校で体育の授業中に貧血を起こして倒れたのがその始まりだった。
慌てて運んだ先、教師不在の保健室で中途半端に意識を覚醒させたミオは、反射的にオスカーの首筋に噛み付こうとしたのだ。
しかしその行動は、他の誰でもないミオ本人によって止まる。彼は貧血であるということのみにとどまらない蒼白さで、苦しげな表情を浮かべた。
「ごめんね……オスカー」
「ええと……謝らなくてもいいんだけど、その……」
さすがにオスカーも言い淀む。どう問いかけていいのか分からないというのが正直なところだった。
ミオの方もどう切り出したらいいものかを判断しかねており、二人にしては珍しく何とも形容し難い微妙な空気感の中で、さながら酸素を求める金魚のような有様だ。
「僕……その……吸血鬼、なんだ」
意を決して口にしたその言葉は小さくか細い声で紡がれ、加えて嫌悪感が滲む。
「だから、オレの首筋を噛もうと……?」
確認の意味で問いかけたオスカーの言葉に、渋々ながらミオは小さく頷いた。認めたくないという思いと、真実を偽りたくないという思いが混ざり合っているのがよくわかる表情は、言うなれば苦悶だ。
オスカーからすれば、ミオがどういう生き物なのだとしてもミオという存在には変わりがない。現状把握できていることは少ないが、目の前の彼が苦悶の表情を浮かべているという事実は、そのままにしておきたくはないものだった。
「ねぇ、ミオ。そんな顔しないで?」
俯いてしまっているミオをしたから覗き込んで見上げると、オスカーは微笑む。
ミオはそんなオスカーの様子に目を丸くするが、ほんの少しだけ微笑みを返してみせた。
「やっぱりミオは笑ってる方がいいよ」
半ば、いわゆる殺し文句にも等しい言葉を口にしながら、オスカーはやはり微笑んでいる。
今度はミオが耳まで赤くして、これまでとはまた別の理由で視線を落とした。
ちらりとミオの表情を窺えば、照れや喜びといった先ほどとは違う感情が滲んでいることは一目瞭然だ。
「嬉しいけど……オスカー、僕は吸血鬼だよ?」
「うん」
不安げに言葉を紡ぐミオに対して、オスカーの返しはあっけらかんとしたものだった。それがどうかしたのか、とでも言わんばかりの声にミオは拍子抜けしてしまう。
「えっと……」
二の句も継げないとはまさにこのことだ。
ミオは何か言葉を口にしたいという気持ちと裏腹に、言葉を紡ぎ出すことができないままにオスカーを見つめている。
「ミオが吸血鬼でも、人間でも、ミオはミオでしょ?」
当然と言わんばかりにオスカーは笑った。
これまで必死にひた隠しにしてきた自身が人間ではなく吸血鬼であるという真実。それは普通の人に伝えたならば、大抵の場合は怖がられるもしくは好奇の目に晒されて実験にでも使われる、そういったことに発展するのが関の山だ。
幼い頃から親にもそう言い聞かされて育ったし、そんな話はいくらでも聞いてきた。
だが、オスカーは今まで見聞きしてきた話に登場する人間とは全く違っていたのだ。
怖がることも、好奇の目で見ることも、拒絶することも、見方を変えることすらない。
今まで通り、変わらないのだ。驚くほど何も変わらない。
「けど……怖くない? 気持ち悪く、ない?」
「何で?」
心底不思議そうにオスカーは首を傾げた。そんなことは考えたことがない、とでも言いたげなその様子はミオにとって衝撃だ。
「えっと……」
やはり言葉を続けられなくなってしまうミオに、オスカーは笑いかける。
「さっきも言ったけど、ミオはミオだよ。吸血鬼だからどうだとか、そんなの関係ない」
オスカーの言葉に、ミオの瞳には涙が浮かんだ。
これまでずっと、吸血鬼だと知られてしまうことが怖かった。知られてしまえば、オスカーはきっと離れていってしまう。そんな風に考えていたからだ。
吸血鬼という存在は人間には肯定されないものだと、そう思い込んでいた。
実際にはそういうものなのだろう。ほとんどの場合には、ミオの想像した通りもしくはそれに近い形で事が運んでいくだろうことは想像に難くない。
ただ、オスカーはそうではなかった。
「ありがとう、オスカー」
涙ぐんだままミオは微笑む。オスカーに向けて、微笑みかけた。
「どういたしまして。あのね、ミオ」
普段と変わりない様子のまま、オスカーが言葉を紡ぐ。ミオは黙って、オスカーが紡ぐ言葉の続きを待った。
「吸血鬼って血が必要なんだよね?」
「うん……僕は体質的にそんなに必要はないんだけど。それでも血はないと……」
「今日の調子が悪くなったも、血が足りてないのが原因?」
「うん、そうだと思う……けど」
オスカーが何を言いたいのかがミオには分からず、小さく首を傾げながら疑問を示す。
「血が足りたら、ミオは元気になる?」
さらに言葉を重ねたオスカーに、ようやくミオは察するに至った。
オスカーは、己の体に流れる血を差し出そうとしている。
「だめだよ、そこまで迷惑かけられないよ」
自分という存在を真っ直ぐに見て、認めてくれるだけで十分すぎるのだ。それ以上を望むつもりは、ミオには全くなかった。
だがオスカーは首を横に振る。
「ミオが元気になれるなら、出来ることをさせてよ」
はっきりと、もう決めているのだとでも言わんばかりにオスカーは強く意志の宿った視線を、ミオへと向けた。それこそ、真っ直ぐに。
「……やっぱり、そこまで頼めないよ」
もう一度、ミオが断るとオスカーは「そっか」と小さく呟いて寂しげに笑う。
「助けになれたらって思ったけど……ミオを困らせちゃ、だめだよね」
ミオは心苦しさを抱きながら「気持ちは嬉しい、ありがとうオスカー」とだけ言葉を返した。
その日、ミオは学校を早退した。

翌日の朝、今までと同じようにオスカーはミオの家まで出向く。
毎朝、ミオの家まで出向いて彼と一緒に学校に登校するのがオスカーの日課だ。
朝が弱いミオはオスカーの迎えが来ると大慌てで支度をして飛び出してくる。
今日もいつもと変わらずに、オスカーがミオの自宅のインターホンを鳴らせば、しばらくして慌てた様子のミオが家から飛び出してきた。
昨日の出来事など、まるでなかったかのように。
ミオとしてはあまりに触れられたくはないことだろう。そのことはオスカーにも想像することは容易かった。
だがそれを、そのままなかったことにすることもオスカーには出来ない。
何故ならば、今日は昨日同様にあまり顔色が優れず、血が不足していることがありありと想像できたからだ。
家族からも「無理して学校へいかなくてもいい」と声を掛けられるほどの様子であるにも関わらず、ミオは大丈夫だと何度も何度も言うのだ。
まるで、自分に大丈夫だと言い聞かせているかのように。
ミオの自宅を離れ、歩き出しても普段と比べて少し歩く速度が遅いように感じられてくる。
「ミオ、大丈夫? おばさんもいってたけど、無理して学校行かなくてもいいんじゃない?」
「……大丈夫」
「ねぇ、ミオ」
これまでよりも真剣な声色でオスカーはミオに声をかけた。
その声にミオは息を呑む。
声色同様に真剣な様子のオスカーが真っ直ぐにミオのことを見つめていた。
学校の校舎は目と鼻の先に迫る。他にも登校する生徒の姿はあるが、それすらも瑣末なこととオスカーは立ち止まり、ミオと向き合っていた。
「無理しちゃだめだよ。保健室にいこう?」
強制するような様子は、声からも表情からも一切感じられない。それでもどこか、逆らい難いその言葉にミオはひとつ頷いた。
そのまま保健室へと直行した二人は、部屋から出てきた養護教諭と出くわす。
「今から朝礼だから空けるんだけど……使った方が良さそうね」
どう見ても蒼白な肌色のミオを見て養護教諭は頷いてから「使ってくれていいわ。二人のことは言っておくから」と告げた。
ミオは会釈だけを返し、オスカーは「ありがとうございます」と頭を下げて保健室へと入っていく。
すぐにベッドのところまで行くと、ミオを寝かせてオスカーはその脇に置かれている椅子に腰を下ろした。
「ごめんね、オスカー。教室に行ってくれていいから」
「そんなの、出来ないよ」
言葉に驚くミオの視線と、真剣なオスカーの視線が交差する。
「昨日よりも調子悪そうだよ、ミオ。やっぱり血が、足りてないから?」
オスカーの問いかけに一瞬躊躇してから、ミオは小さく頷いてみせた。認めたくはないが、事実であることもまた確かで否定することもまた出来ない。
「どうして、血を飲まないの?」
「……嫌なんだ、誰かの命を奪ってしまっているみたいで」
「そっか……」
苦しげな表情を浮かべて俯くミオをオスカーはただただ見つめている。
何が正しいのか、どうすることが一番良いことなのか、オスカーがいくら思考したところで現状答えは出ない。
それは判断する材料が少ないと言うことでもあり、嫌がることを強要することへの抵抗感でもあり、しかしそれはそれとしてミオにこれ以上の無理をして欲しくはないという純粋な心配もまたオスカーが立ち止まってしまう原因となっていた。
「でもね、オスカーと一緒にいたくて……わがままだよね」
ミオは寂しげに呟く。様々な感情が彼の中にも渦巻いていたが、結局のところはオスカーと一緒にいたいという気持ち、ただそれだけが叶わないことへの悲しさが募るのだ。
その寂しげで悲しげな様子は、オスカーの背中を押す。
愛しい人が、己の矛盾に今この瞬間にも苦しんでいるのならば、成すことはただ一つだった。
「わがままじゃないよ。オレだってミオと一緒にいたいし、ミオには笑顔でいて欲しいし、、ミオに元気でいて欲しいもん」
ミオ以上に要望を口にしながらオスカーは微笑む。ベッドに横になっていたミオはその上半身をゆっくりと起こしながら、オスカーに向けて悲しげな笑顔を返した。
──そんな顔をさせたいわけじゃ、ないのに。
オスカーはただただそう思う。
そんなつもりは全くない。いつものように、笑っていて欲しいだけだ。
血が足りないというなら、やはり出来ることは一つしかなかった。
「やっぱり、血が足りたらミオが元気になるんだったら……」
そこまで言葉を紡いでから、オスカーはゆるく羽織った上着を脱ぐと制服のシャツの上ボタンも緩める。
するとシャツの下に隠れていた首筋が露出するような格好となり、ミオはそのオスカーの首筋に釘付けになった。
吸血鬼としての本能が、本能に紐づく欲望が疼く。血が欲しいと、求めてやまなかった。
「だ、めだよ……オスカー」
「大丈夫。だから、オレの血を飲んでよ」
オスカーはその身を差し出すようにして、首筋をミオの方へ近づける。
「オスカー……」
ミオの瞳は不安と欲望に揺れた。オスカーに噛み付く以上の危害を加える結果になってしまうかもしれないという不安と、血が欲しいという本能的欲求が入り混じる。
求めてはいけないと、強く思うと同時に視線はオスカーの首筋に釘付けになったまま、そこに歯を立て溢れ出す血液をミオは無意識に想像してしまった。
それは嫌悪で甘美で苦痛で恍惚で絶望で幸福でそして背徳を次から次へと想起させていく。
「大丈夫だから、ね?」
繰り返されるオスカーの〝大丈夫〟という言葉はまるで魔法のようだ。
ミオとしては大丈夫ではないと、そう思っているはずなのにどうしてかオスカーの言う通りのように思えてくる。
そうしてしまっていいのだろうか。
ミオが疑問に苛まれている間も、オスカーは心配そうな視線をミオに向けながら、自身を明確に差し出してくる。
自分の血を吸って、と。
生殺しとも言えるこの状況で、ミオは何度も何度も自分の本能を拒絶する。拒絶し切りたいと思っているはずなのに、何故なのだろうか。
オスカーにまるで引き寄せられるようにして、ミオは目の前の首筋に小さく一口かぶりついた。
ぷつり。
皮膚に穴があく。
それは吸血鬼たるミオの鋭い犬歯によって作られた、人ならざる彼らの食事を行うためのもの。
そこからゆっくりと血液を吸い出していく。
オスカーは未知の感覚に小さく身体を震わせた。
状況だけを冷静に思えばきっと、何かしらの痛みを感じるだろうはずだ。だが、不思議とそんなことはない。
それどころか身体には甘く、心地の良い痺れが走るほどだ。
血の巡りが妨げられ、外へと吸い出されていくのがはっきりとわかるが、それがどうしてか心地よく感じられた。
ぞわりとした感覚と共に全身を甘い痺れが満たしていく。
耳元ではミオが血液を嚥下する音が小さくだが確かにしていた。不思議とそれすら気持ちよく感じる。
厳密にいうと、幸せだとオスカーは感じていた。
それは永遠のようにも、たった一瞬の出来事のようにも感じられる。実際のところがどちらなのかは、確認をしていないためわからない。
きっと永遠ではないだろう。一瞬だったのか、少し時間がかかったのか、その程度だ。
そっとミオがオスカーの首筋が離れる。
オスカーはその瞬間に軽いふらつきを覚えるが、それはすぐにおさまった。そのままミオの方を見てみると、少なくとも昨日今日の中では一番調子が良さそうに見えて、思わず笑みを浮かべる。
「少しはよくなったみたいだね」
「うん、ごめんね……オスカー」
「謝らなくていいよ。オレ、ミオの役に立ったの嬉しいんだから」
何でもないように返されたオスカーの言葉に、ミオは目を見開くとそのまま彼にしがみつくようにして抱きついた。
「……ありがとう、オスカー」
その目にはほんの少し涙が浮かんでいるが、幸いにも態勢的にオスカーからミオの顔は見えない。
それでも何か思うところがある様子で、オスカーはミオのことをしっかりと抱きしめ返す。
「どういたしまして」
言葉も動作も、その全てがまるでミオのことを受け止めようとしているかのように大きく広げられていた。
ミオは心から幸せを感じながら、オスカーを強く抱きしめ直して瞼を閉じる。
オスカーから受け取れる、その全てを噛み締めるように。