幼い頃夢見ていたのは平凡で幸せな毎日だった。
いつか見た夢は、大切な人がとなりにいるという日常だった。
それはいつか叶うものかもしれないし、そうではないのかもしれない。
そんなふうに思っていたものだったが、今この瞬間に願いが確かに叶っていた。
「環くん、おかえり」
帽子にサングラス、口元にはマスクと完璧なまでに変装をした壮五がいる場所は、空港の発着ロビーだ。
そして壮五の目の前には、彼の言葉の通り環の姿がある。
大きな荷物を引いてゲートをくぐる環は、壮五にたいして大きく手を上げて見せた。
今日は環が、留学先から帰国を果たした日だ。
アイドリッシュセブンの他の仲間たちも今日という日を心待ちにしていたが、全員で迎えに行けるほど彼らは暇ではなく、揃ったところで騒ぎになるばかりだ。
だからこそ、環を迎えるという役目は壮五に託され、この瞬間に至ったという訳だった。
小走りで壮五は環の方へ駆け寄ると、嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね」
「だな。ラビチャや通話はしてても、直接はめちゃくちゃ久しぶりだもんな」
環も壮五に笑いかける。その柔らかな表情は以前のものよりも少し大人びていた。
「行こう、みんな待ってるよ」
歩き出そうとする壮五の手を、環が掴む。
「そーちゃんは、待っててくれなかったん?」
覗き込む視線にどきりとした。あまりにも真剣な眼差しは、周りの全てを見せずまるで二人だけの世界にいるような錯覚さえ抱かせる。
「…….意地悪なことをいわないでくれ。僕がだれよりも、君が帰ってくるのを待ってたよ」
壮五の言葉に、環の瞳が一度大きく見開かれた。そして、次には満足気に細くなる。
「ちゃんと言えてえらいじゃん」
「ふふ、そうだろう?」
笑顔を向けあって、二人は歩き出した。
これまでに紆余曲折を経て、必死に苦難を乗り越えてきた二人だからこその空気がある。
この瞬間だけは互いを独り占めしながら、懐かしくも求めて望んた時間を謳歌していた。
──ああ、このまま時間が止まってしまえば。君を独り占めできるのに。
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「この後、どうすんだっけ?」
「万里さんが車で迎えに来てくれているから…….」
「それ乗ってみんなのとこ、か」
「そうだね」
交わす言葉の間には、なんとも言い難い微妙な間が挟まる。
それは名残惜しさといえる感情を帯びたもので、環にしても壮五にしてもそれは等しく抱いているものだった。
「……このまま逃げちゃえればいいのにな」
ぼそりとつぶやいたのは環だ。
「……それは、僕たちの番組みたい……だね」
気持ちが痛いほどにわかるからこそ壮五は、あからさまかつ露骨に話を逸らすべく言葉を紡ぐ。
「そうじゃねぇよ、そーちゃん」
歩く足は速度を落としながらも止めることのないままに、環ははっきりと否定の言葉を口にした。
「分かってる……だろ?」
「うん……分かるよ。環くんが言いたいこと」
観念した壮五が肯定の言葉を口にしたのを見て、環は大きく一つ頷く。
「みんなが待ってるから、そんなことしねぇししちゃいけないって知ってるけど」
「うん……」
環は言葉と共に隣の壮五に視線を向けた。壮五のよく知る環の様子を表層的には感じさせるが、瞳の奥には熱を帯びた部分が潜んでいる。
それは壮五の心臓をどきりと大きく弾ませ、環の言葉の続きを待った。
「俺とそーちゃん、二人だけでどこかへ行ってやりたくなる」
「…….環くん」
切実で真剣、少し影のさした表情は彼が大人になったのだと如実に感じさせるものだ。しかしそれは、すぐになりを潜めて環の顔には屈託のない笑顔が浮かぶ。
「ごめん…….行こ、そーちゃん。バンちゃん、待ってんだろ?」
「…….うん。行こう」
環の言葉は返答すらも許さない空気があり、壮五は同意も否定もはぐらかすことすら許されないまま、いつかと変わらぬ日常への道を二人で歩きだした。
──僕だって、君と二人でどこまでも行けたらと。君と二人きりの世界へ行けたらと、想っているのにな。
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二人の間に言葉はない。
空港の施設から駐車場の方へと歩く二人の足取りは、決して軽いものではなかった。
そして二人の間に流れる空気も少し重たく、それでいて満ちる複雑さに溢れている。
このまま真っ直ぐ行けば駐車場で万理が待っていることはわかっているのだが、どうしてもそうはし難い気持ちを二人して抱いていた。
決して口にはしなくとも。
惜しむ気持ち、足りないと思う気持ち、そういったものが彼らの中には確かにあった。そしてそれはあまりにもどうしようもない気持ちだということも、同時に二人にはわかっている。
だからこそ、空気が重たくなってしまっているというわけだった。
それでも二人は足を進める。進めることしかできないとでも言わんばかりに重くとも、足を動かすことはやめない。
「そーちゃん」
視線は前に向け、足も止めることはないままに環は声を発した。
「どうしたの?」
「疲れた……ちょっとだけ、休憩しても……いい?」
急な環からの提案に壮五は驚くばかりだ。
確かに留学先から帰ってきたばかりで、長時間のフライトを終えてすぐではある。環が疲れているという言葉は偽りではないだろう。
だが、ほんの少し前の笑顔からはあまりにもこの言動はかけ離れていて、壮五としては混乱をきたしてしまうというものだった。
「少しだけだよ?」
「おー」
疲れていると想像するに易い状況である以上、環の言葉を無碍にする事も出来ずに壮五は先の提案を受け入れる。
すると環は空いた手で壮五の手を引くと、人気の少ない場所へと入り込んだ。
「えっと……環くん?」
壮五の疑問の声にも応えることなく、環は真っ直ぐ歩くと今度はぴたりと立ち止まる。次には壮五を壁際に寄せて閉じ込めるように手をついた。
「今だけ、ちょっとだけ。な?」
そんな言葉とともに向けられる懇願の視線は、どうしようもなく必死でそして魅惑的なものに見える。少なくとも壮五の瞳にはそう映っていた。
壮五は環に言われるがまま頷くと、壁につけられた環の手に自分のそれを添える。
環はほんの少しだけ瞳を見開いたが、すぐにそれを穏やかに細めた。
「……あんがと、そーちゃん」
これはただのわがままであり、ただの欲だ。それをわかっていてなお、環は我慢することができなかった。
それほどまでに環が壮五を求めてやまなかったということでもある。
加えて壮五もまたそれは同じだった。
だからこそ、お互いの存在だけを独占し合うこの瞬間は尊いものだ。まるで隔絶され世界から切り取られてしまったような気分だった。
それでも。
このままではいられない。
「今度こそ行こう、環くん」
「……」
壮五の言葉に環は頷かない。まだだ、もっと、と欲を口にはせずとも表情は、そして視線は雄弁に語っていた。
「……今度、二人で出かけよう? だからそれまで、ね?」
「約束。絶対な?」
「うん、絶対」
その言葉にようやく頷いた環が、壮五の手を引いて来た道を戻っていく。
仲間たちの待つ場所へと向かって。
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二人の間に言葉はない。
空港の施設から駐車場の方へと歩く二人の足取りは、決して軽いものではなかった。
そして二人の間に流れる空気も少し重たく、それでいて満ちる複雑さに溢れている。
このまま真っ直ぐ行けば駐車場で万理が待っていることはわかっているのだが、どうしてもそうはし難い気持ちを二人して抱いていた。
決して口にはしなくとも。
惜しむ気持ち、足りないと思う気持ち、そういったものが彼らの中には確かにあった。そしてそれはあまりにもどうしようもない気持ちだということも、同時に二人にはわかっている。
だからこそ、空気が重たくなってしまっているというわけだった。
それでも二人は足を進める。進めることしかできないとでも言わんばかりに重くとも、足を動かすことはやめない。
「そーちゃん」
視線は前に向け、足も止めることはないままに環は声を発した。
「どうしたの?」
「疲れた……ちょっとだけ、休憩しても……いい?」
急な環からの提案に壮五は驚くばかりだ。
確かに留学先から帰ってきたばかりで、長時間のフライトを終えてすぐではある。環が疲れているという言葉は偽りではないだろう。
だが、ほんの少し前の笑顔からはあまりにもこの言動はかけ離れていて、壮五としては混乱をきたしてしまうというものだった。
「少しだけだよ?」
「おー」
疲れていると想像するに易い状況である以上、環の言葉を無碍にする事も出来ずに壮五は先の提案を受け入れる。
すると環は空いた手で壮五の手を引くと、人気の少ない場所へと入り込んだ。
「えっと……環くん?」
壮五の疑問の声にも応えることなく、環は真っ直ぐ歩くと今度はぴたりと立ち止まる。次には壮五を壁際に寄せて閉じ込めるように手をついた。
「今だけ、ちょっとだけ。な?」
そんな言葉とともに向けられる懇願の視線は、どうしようもなく必死でそして魅惑的なものに見える。少なくとも壮五の瞳にはそう映っていた。
壮五は環に言われるがまま頷くと、壁につけられた環の手に自分のそれを添える。
環はほんの少しだけ瞳を見開いたが、すぐにそれを穏やかに細めた。
「……あんがと、そーちゃん」
これはただのわがままであり、ただの欲だ。それをわかっていてなお、環は我慢することができなかった。
それほどまでに環が壮五を求めてやまなかったということでもある。
加えて壮五もまたそれは同じだった。
だからこそ、お互いの存在だけを独占し合うこの瞬間は尊いものだ。まるで隔絶され世界から切り取られてしまったような気分だった。
それでも。
このままではいられない。
「今度こそ行こう、環くん」
「……」
壮五の言葉に環は頷かない。まだだ、もっと、と欲を口にはせずとも表情は、そして視線は雄弁に語っていた。
「……今度、二人で出かけよう? だからそれまで、ね?」
「約束。絶対な?」
「うん、絶対」
その言葉にようやく頷いた環が、壮五の手を引いて来た道を戻っていく。
仲間たちの待つ場所へと向かって。
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あの日、約束をした。
それはただただシンプルな約束だ。
──デートをする。
それ自体は何ら問題はない。そういうことをする間柄なのだから。
お互いにアイドルという肩書きを持って、それに恥じぬ行いをするために公に環と壮五は彼らの関係性を、関係性に付けられた名前を口にすることは絶対にないことだ。
だが、それはそれとして世の目を忍んでデートをするというのは許される。相手を拒絶するような関係ではない。
そういうことだ。
しかし問題は、これとは別のところにある。
環が留学をして、期間を終えるまでただの一度だって日本に帰ってきたことはなかった。壮五にとっては久方ぶりなどという言葉では言い表せないほどに、環の姿を直接目にして言葉をかわすということそんものがまず久しぶりだ。
平たくいうと、緊張している。少なくとも壮五はかなり緊張した面持ちを浮かべていた。
あの日、約束の言葉を口にしたのは環の方だ。
空港で迎えにやってきた万理の車に乗り込むほんの直前、彼は壮五に対して〝落ち着いたら、デートしよ〟と囁いた。
詳細なんてない。そんなものなくとも、約束をしたという事実だけで壮五の心は跳ねて弾み、表情は緩んだ。
珍しくわかりやすい──伝わりやすい──壮五の反応に、環も上機嫌な表情をしていた。ということがあったわけなのだが、いざ思い返してみると自分自身がどうしようもなく浮かれていて、はしゃいでいて、どうにも恥ずかしい様子をさらしていたはずだが、もうそんなことすらどうでもいい。
そんな微笑ましくも美しい、そして曖昧なあの日の約束を胸に日々を過ごした。
それが今日、当日をやっとのことで迎えたというわけだ。
文字通り、待ちに待ったデートというだけに十分な期待感を持って壮五は、落ち着きのない様子できょろきょろと周りを見回した。
グループの面々全員は寮を出て久しく、当然の如く留学から戻ってきた環も一人で暮らしている。壮五もだ。
だからこそ外で待ち合わせという、これまででは考えもしなかったようなことをしているわけなのだが。こうして相手を待つ時間というのは、どうにも新鮮だった。
時間はもう、先日に取り付けた詳細な約束の時間に至っている。
環の姿は、まだ見当たらない。
壮五が不安を抱いたその瞬間に、見間違えようもない環の姿が視界に飛び込んできた。
「ごめん、そーちゃん!」
ほんの少しきれた息で、環は謝罪の言葉を口にしてから相互に対して頭を下げる。こういう事実に対してきちんと対応する行動が、正直に行うことのできる様子は素直に美徳だと壮五は思う。
「いいよ、そんなに待っていないから」
返す言葉は少し考えると──壮五の性格などを鑑みれば容易に──事実とは異なるだろうことが想像できるものだが、環はホッとしたように笑った。
口元に大きなマスク、頭には深めにキャップを被ってこそいるが環のその表情ははっきりとしたものだ。
対する壮五の方も口元には同様にマスクをつけ、帽子とシルエット感の伝わりにくい洋服で存在を隠そうという意図を感じさせる姿で街に溶け込んでいた。
「サンキューな」
環はそう言ってから軽やかな足取りで歩き出す。
全身から喜びを感じる姿に、壮五もまた嬉しくなって笑った。
「環くん、行きたい場所はある?」
「ん〜……じゃあ……」
長い留学から帰ってきたばかりだ。立ち寄りたい場所は少なからずあるだろう。
そう思って壮五は今日一日、環の要望を叶えることに徹すると心に決めていた。そもそも誘ってきたのも環だったため、純粋に行きたいところがあるのではなかろうかと考えるのは自然な思考の流れでもあったのだ。
「こっち! 行きたい店ある」
環は言葉と共に壮五の手首をしっかりと掴んで歩き出す。
鼻歌を口ずさみながら歩く環は、留学する前と変わりないようでいて歩幅や速度、その手のものが以前よりも落差を感じにくくなっており、ああ彼も大人になったのだと感慨を抱かせた。
今日も楽しく、そしてあっという間に過ぎ去りそうだ。
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楽しげに、そして軽やかな足取りで環が前を歩いていく。壮五は彼の後ろ姿を見つめながら、その後ろをついて回った。
環の行きたい場所、環の思う壮五の好みそうな店、そういった場所を目的もなくただ巡っていく。無計画で自由なデートだった。
「な、そーちゃん」
環が輝くような笑顔で壮五のことを振り返る。
「どうしたんだい?」
「どっか入る?」
その言葉に壮五は質問の意味に対して、一瞬思考を巡らせてからハッとした様子を見せてから微笑んだ。
「そうだね、いいんじゃないかな」
肯定の言葉を受けて、環は嬉しそうに笑うと近くの店に足を向ける。
そこは街の中でもありふれた場所で、歩き回った休息を取るにも十分ないわゆる喫茶店だった。
選んだテーブルに環と壮五は向かい合って腰掛ける。注文を済ませると二人は無言で視線を合わせるばかりだった。だが、彼らの表情に緊張や気まずさといったものはもちろんなく、無言の時間であろうとも満たされていると判ずるにあまりある表情を浮かべている。
平たく言うなれば、二人してその表情は街中を歩いている時と同様に楽しげだった。
「久しぶりにこうして街の中を歩くのはどう?」
「ん〜? やっぱ楽しい」
「それはよかった」
「そーちゃんは?」
「うん、僕も楽しいよ」
第三者の視線から見ると、微笑ましくもあり同時に少しもどかしさも感じるような会話を二人は繰り広げる。
環は壮五に対して少し顔を寄せながら顔の前に手を持ってきて、その指を組んでからませた。
その先にまるで壮五は当たり前のように視線を吸い寄せられる。
元々、本人は意図していないにしても少なからず動作に色気の滲むことのあった環ではあるが、留学して帰ってきてからそれに拍車がかかったように壮五は感じていた。
環はそんな視線を知ってか知らずほんの少しだけ指先を動かして「どうしたん?」と尋ねる。
「あ、いや……」
さすがに指先を見て色気を感じたなどとは言うわけにもいかず、壮五は言い淀んだ。含みしか感じさせない返答に、環の表情が心なしか悪戯の色を帯びる。
さらに少し顔を寄せてから環は、小さな声で呟いた。
「……そーちゃん、なんかえろい」
言い当てられたような、そうでもないような。ただはっきりと告げられた言葉は、壮五を薄らとでも赤面させるには充分で、あまりにも十分で。
返す言葉もないままに、壮五は口をとがらせた。
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ひとしきり遊ぶ、という言葉がぴったりなほど二人は全力でオフの日を満喫していた。
辺りはすっかり暗く、街中の人の往来はまだまだ少なくないが昼間とは全く異なる景観が広がる。
雑踏の中で顔を隠して人目を気にしすぎなければ、大体は何事も起こらない。
二人がいかに有名人というカテゴリに置かれる人間であったとしても、いついかなる時でもその影響を受けるわけではないというわけだ。
何をするにも、極端に怯えたり警戒することは逆効果になりがちである。
かつての壮五であれば必要以上に警戒して、結果としては好ましくない状況の中心に立っているなんてことも起こりえた。
だが、今日の壮五にそんな様子は微塵も感じられない。それどころか、その堂々たる様子からは不安どころから緊張の一つすら見えてこないほどだ。
隣を歩く環ともども、それはそれは楽しげであり同時に満足感も溢れるような空間を作り出していた。
「な、そーちゃん。明日の予定は?」
「仕事は入っているけれど、昼からだよ」
「ふーん……じゃ、もうちょっとだけ付き合ってよ」
環はそう言って笑う。
その笑顔は壮五知る表情よりも少し大人びたものだ。誘うような笑みにごくりと息をのむ。
「……うん」
付き合い始めてから、直接顔を合わせるときはいつだって、それどころか言葉を交わすだけで壮五の心臓は大きく早くうるさい音を立て続けている。今だってそうだ。
その表情に、声に、言動に、どきりとする。
ただ一言の言葉を返すだけで精一杯だった。
壮五の返答を確認してから環は先導する形で歩き出す。どこか行きたいところがまだある、という風でもない。
疑問ばかりが頭に浮かぶ壮五だが、それでもただひたすらに環の背中を追いかける。
これまでは街中、人の往来のある場所ばかりを巡っていたが、今日はじめて人の気配が少ない方向へと環が足を向けた。そして大半の人間からは視覚になるだろう建物の影へと環は滑り込む。
「環くん……?」
壮五の疑問の思いが、ついに口をついてこぼれた。慌てて環の背中を探した次の瞬間に、壮五はぐいと建物の影へと引き込まれる。
もちろん、それは環の手によってだ。
そして次の言葉を紡ぎ出す前に、壮五の口が塞がれる。
壮五の目の前には環の顔があり、口には温かく柔らかな感触。
──そうか、キスされているのか。
その理解に至るまで、壮五の頭にはかなりのタイムラグが発生していた。
納得したその瞬間には環の唇も顔も、壮五から離れていく。
「ごめん。したくて、つい」
申し訳なさそうに、そして同時に照れくさそうに環はつぶやいた。
「ううん、嬉しいよ」
返す言葉とともに壮五は微笑む。
心からの喜びと幸せを含んだその表情は、甘い菓子のようだった。
